薬剤経済学の真髄

2016年4月から費用対効果評価の試行的導入が開始され、我が国の医療政策にもいよいよ薬剤経済学(医療経済評価、費用効果分析)が導入されました。諸外国では医療技術評価(HTA)が、もはや「あって当たり前」の状況にあります。我が国でも費用対効果は、医薬品・医療機器の価値を評価し、適正な価格を検討するための必須エビデンスとなっていくことは間違いありません。薬剤経済学は、今後の医療業界で欠かせない知識となるでしょう。

医療の価値評価

薬価に関する議論では、しばしば「価値に見合った価格」という言葉が使われます。しかしそもそも医療の価値とはどのように評価すればよいのでしょうか。

図1医薬品/医療機器の価値とは?

医薬品・医療機器の価値

医療の価値を考えるために、まず医療の目的とは何か?を考えてみましょう。いろいろな考え方があると思いますが、薬剤経済学では医療の目的を、患者さんの生命予後(生死・生存年数)あるいは生活の質(QOL)を維持・改善することと考えます。いろいろな医療技術・医療行為を頭に浮かべてみてください。それらは必ずこれらのいずれか(あるいは両方)の維持・改善に貢献しているはずです。そうであれば、生命予後とQOLを1つの指標でまとめて評価することができれば、医療の価値を評価できることになります。そのために考え出されたのが質調整生存年(quality-adjusted life year: QALY、クオーリーと読みます)です(図1)。

QALY(質調整生存年)

QALYの考え方を図2を使って説明しましょう。 このグラフは横軸が生存年、縦軸がQOLを示しています。QOLは0を死亡、1を完全な健康とした数直線上で表現される値となっており、このようなQOLをQOL値と呼びます。図2では2名の患者さんの生命予後とQOL値の変化が描かれています。

図2QALY

QALYs

患者Aは最初は完全な健康状態(QOL値=1)でしたが、10年目に何かの病気をして、QOL値が0.8に悪化しました。その状態で10年間過ごし、20年目にまた何か病気をして今度はQOL値が0.5に悪化しました。さらに10年後にQOL値が0.2に悪化し、その10年後に亡くなりました。

一方患者Bは最初から健康状態が悪く、QOL値は0.5でした。しかしそのまま40年間過ごし、40年目に亡くなりました。

QALYの考え方は非常にシンプルで、生存年数をQOL値で重み付けしたものを累積して計算します。

例えば患者AのQALYは下記のように計算されます。

患者AのQALY=10年×1.0+10年×0.8+10年×0.5+10年×0.2=25QALYs

同様に患者BのQALYは下記のように計算されます。

患者BのQALY=40年×0.5=20QALYs

この2人の患者の40年間の過ごし方は全く異なりますが、生存年数は40年と同じであるため、生死をエンドポイントとする生存解析ではこの2人を区別することはできません。しかしQALYを使うことにより、この2人を明確に区別することができました。

生命予後とQOLの両方を同時に評価できるQALYは、費用効果分析における標準的な効果指標として用いられています。

薬剤経済学とは

価値に見合った価格を考えるためには、医薬品/医療機器の価値(QALY)と、関連して発生する費用の両方を評価することが必要ですが、このとき、価値と費用を評価する順番が重要です。言うまでもなく、医療の目的は医療費削減ではなく、国民の生命予後・QOLの維持・改善ですから、費用対効果を考える場合も、まずこの目的が達成されているかどうかを考えます。医療の費用対効果の話をしていると、ときどき「なにも治療をしないのが一番費用効果的ではないですか?」という意見を聞くことがあります。この意見がナンセンスなことは直観的にだれでもわかると思いますが、なぜナンセンスなのか説明できる人は意外と多くないかもしれません。この話がナンセンスである理由は、この発言が効果を考えずに費用だけを考えているからです。なにも治療をしなければたしかに医療費はかかりませんが、患者さんの健康状態は確実に悪化します。それは医療として失格です。薬剤経済学では、分析対象技術による効果が比較対照技術と同等以上であることが前提となります。

図3薬剤経済学とは

薬剤経済学

モデル

「医薬品/医療機器の価値」は、QALYによって評価できますが、実際にQALYを計算することは簡単ではありません。例えば、降圧薬の臨床効果は、高血圧患者に対する降圧効果として臨床試験により評価することができます。しかし降圧薬によるQALYの変化を評価するためには、降圧効果による余命の延長や生涯におけるQOLの変化を評価しなければなりません。そのためには、降圧効果による脳卒中発生の有無や、脳卒中後の障害度分布、障害度による生命予後の違いなどを長期間(生涯など)にわたって評価する必要があります。第三相試験の試験期間が長くても数ヶ月程度、いわゆる大規模臨床試験と言われるものでも数年程度であることを考えると、臨床試験の中でQALYを評価することは非常に困難であることがわかります。

薬剤経済学では、QALYや長期的な医療費の推計を、臨床試験ではなく、「モデル」を使って行います。モデルとは、治療の流れや疾患の長期的な予後を簡略化して表現したものです。(図4)。

図4臨床試験とモデルシミュレーション

臨床試験とモデルシミュレーション

急性疾患の分析では、ディシジョンツリーというモデルがよく使われます(図5)。ディシジョンツリーの構造は非常にシンプルで、治療や疾患の流れを左側から右側に向かって組み立てていきます。「治療を開始して3日目に初期治療効果を判定する。有効な場合は治療継続、効果不十分な場合は、別の薬剤に切り替える。効果不十分な確率は5%・・・」のように起こりうるシナリオとその確率によってツリーを構築します。ディシジョンツリーによって、ある治療を行った場合に確率的に期待できる費用や生存年数を推計することができます。これらを期待費用、期待生存年と呼びます。

図5デシジョンツリー

デシジョンツリー

一方慢性疾患の分析では、マルコフモデルというモデルがよく使われます(図6-1)。マルコフモデルでは、慢性疾患の予後をいくつかのステージに分類し、仮想的な患者集団が長期的に各ステージに分散していく様子をシミュレーションします(コホートシミュレーション)。図6-1はある疾患Aの予後に関するマルコフモデルです。この疾患Aに対する新薬Aは、病態悪化率(及び死亡率)を従来療法よりも50%抑制する効果があるものとして、マルコフモデルによってシミュレーションした生存曲線(10年間)が図6-2になります。このシミュレーションから2群の期待生存年の差は0.9年であることもわかります。

図6-1マルコフモデル

マルコフモデル

図6-2マルコフモデルによるシミュレーション(生存曲線)

マルコフモデルによるシミュレーション(生存曲線)

費用対効果の評価指標

モデルにより、長期的なQALYや費用の推計ができたら、次はいよいよ費用対効果の評価です。

例として、ある疾患における既存薬Bに対する新薬Aの評価を考えます(図7)。もし新薬AのQALYが既存薬Bより大きく、総費用(薬剤費だけではなく、長期的に発生する関連費用)が既存薬Bより小さい場合は(図7の右下)、非常にシンプルな結論が導かれます。すなわち、迷わず新薬Aを選択すべし、です。反対に、新薬AのQALYが小さく、費用が大きい場合(図7の左上)は、新薬Aを選択すべきではありません。

問題は、新薬AのQALYが既存薬Bよりも大きく、費用も大きい場合(図7の右上)です(新薬が既存薬よりも効果が小さい状況(図7の左下)は考えにくいので、この状況の説明は省略します)。このケースでは、新薬Aを使うことにより、患者の健康状態(QALY)が改善するのはよいのですが、医療費も増加してしまいます。このような場合、新薬Aの費用対効果はどのように考えたらよいでしょうか?

図7費用対効果平面

費用対効果平面

このような場合は、新薬Aにより既存薬Bから1QALY延長(改善)するために必要となる追加費用で、新薬Aの費用対効果を評価します。これを増分費用効果比(incremental cost-effectiveness ratio: ICER)と言います。図8にICERの考え方を示します。新薬Aは既存薬Bよりも2QALY延長することができますが、費用も200万円多く発生してしまいます。このときICERは

200万円/2QALY=100万円/1QALY延長

となります。

図8ICERの考え方

ICERの考え方

問題はこの100万円のICERが高いか安いか、です。実はすでに多くの国で薬剤経済学は公的な医療政策に応用されており、英国はその代表的な国のひとつですが、英国では費用効果的(cost-effective)と考えられるICERの上限値(閾値)は3万ポンドと考えられています。米国における研究論文では昔から5万ドルがよく使われているようです。日本円にすれば500万円程度といったところでしょうか。日本ではコンセンサスの得られたICERの閾値はまだありませんが、いくつかの研究により海外のICERの閾値と類似の数値も報告されています。

日本では医療費が増加すると、それだけで悪いイメージを持たれがちですが、薬剤経済学を公的に利用している国でそのような考え方をしている国はひとつもありません。これらの国では、医療費が多くかかったとしても、それに見合った価値があるのであれば許容しよう、と考えます。それこそが薬剤経済学の考え方なのです。

不確実性の扱い

モデル分析は、臨床試験期間を超えた時間範囲における費用対効果を評価するための非常に強力なツールなのですが、気を付けなければならない点もあります。そのひとつは、モデルに設定するパラメータの不確実性の扱いです。例えばサイコロを振って実際に1がでるかどうかはわかりませんが、それが完全なサイコロであれば、1がでる確率(1/6)には不確実性はありません。しかし、臨床試験の有効率はどうでしょうか。例えばある臨床試験で有効率85%という結果が得られたとしましょう。このとき95%信頼区間が75%~95%だったとすれば、真の有効率は95%の確率でこの範囲に収まると考えられますが、その値を正確に示すことはできません。つまり有効率85%には不確実性があるわけです。

このような不確実性が分析結果に与える影響を評価するために、モデルを使った薬剤経済分析では感度分析を行います。感度分析とは、使用したパラメータを一定の範囲で変化させた場合に結果がどのように変化するかを検証する手法です。例えば、さきほどの有効率(85%)を実際に95%信頼区間(75%~95%)で変化させてみて、「費用効果的である」という結論が変化しないかどうかを検証します。パラメータの値を変化させればICERの値は当然変化しますが、いずれの感度分析においてもICERが閾値(例えば500万円)を下回っていれば、費用効果的である、という結論は頑健と考えられます。ひとつのパラメータを対象とした場合の感度分析を一元感度分析(図9)、同時に2つのパラメータを変化させた感度分析を二元感度分析(図10)と呼びます。

図9一元感度分析

一元感度分析

図10二元感度分析

二元感度分析

さらに高度な感度分析に、パラメータを確率分布として設定し、ランダムサンプリングを繰り返すことにより、複数のパラメータの不確実性を総合的に評価する方法があります。これを確率的感度分析(probabilistic sensitivity analysis)と呼びます。確率的感度分析を実施すると、ICERが任意の閾値を下回る確率を示すことができます。横軸をICERの閾値、縦軸をICERが任意の閾値を下回る確率としたグラフは費用対効果受容曲線(cost-effectiveness acceptability curve)と呼ばれ、最近の分析では必須のアウトプットとなっています。

例えば図11からは、分析対象の薬剤のICERが500万円以内になる確率はおよそ60%であることがわかります。

図11費用対効果受容曲線(cost-effectiveness acceptability curve)

費用対効果受容曲線(cost-effectiveness acceptability curve)

薬剤経済学の応用

医薬品/医療機器の真の価値は、生命予後とQOL値で評価することができ、それはQALYで統合的に評価できることを示しました。長期的な推計はモデルを使うことで可能になり、ICERにより費用対効果を評価することを示しました。さらに、確率的感度分析により、結果の不確実性を定量的に評価することができることも示しました。

このような評価は、価格付けの議論に必要であることはもちろんですが、それ以外の分野でも様々な使い方をすることができます。

例えば、薬剤経済学(医療経済評価)は、製薬/医療機器会社が自社製品のポートフォリオを検討するときにも重要なインプットになります。QALYは医薬品/医療機器の価値そのものですから、その会社が持つすべての製品の総QALYは、その会社全体の製品価値を表していると考えることができるかもしれません。
またモデルを使った分析は薬剤経済学の大きな特徴のひとつですが、モデルは開発/マーケティング戦略でも応用可能です。例えば、臨床試験を実施する前に有効率や安全性の不確実性について、様々なシミュレーションを行うことができます。良好な費用対効果が期待できない場合は開発を中断する、あるいは開発計画を変更したほうがよい場合もあるかもしれません。あるいは感度分析により患者の予後や費用対効果に影響力の大きいパラメータを識別することができれば、追加的なエビデンスの収集により、それらの情報を補完することもできます。またモデルは治療の流れと疾患の長期予後を構造化したものですから、治療ガイドラインの検討などにも役立ちそうです。薬剤経済学は単に医薬品/医療機器の費用対効果を評価するだけでなく、様々な領域で応用可能なのです。